茶の湯とは、4時間を使った2幕のドラマである。
「日常茶飯事」という言葉があるように、お茶を飲むこと、ごはんを食べることは日本人の日常的な行為だ。しかしそこから生まれた茶道は、非日常の精神的な高まりや安らぎをもたらす、日本ならではの精神文化だ。
「日常茶飯事」という言葉があるように、お茶を飲むこと、ごはんを食べることは日本人の日常的な行為だ。しかしそこから生まれた茶道は、非日常の精神的な高まりや安らぎをもたらす、日本ならではの精神文化だ。
日常でのお茶と茶の湯の違い。まず、日常の世界では食事とお茶の割合は9:1。茶の湯ではそれが5:5の関わりで存在する。そしてもうひとつ、茶の湯はひとりではできない。亭主が居て、客を招くことになる。
亭主が客をもてなす。それは単にお茶を一服出すだけでなく、いわば舞台の上に客を上げるということ。歌舞伎にしろ文楽にしろ、客は舞台の外に居て、参加できるのはせいぜい拍手か声を掛ける程度。茶の湯では茶室という舞台に客を上げ、心を込めてもてなす。
もてなしのドラマの、1幕目。
亭主たる演者は、まず料理を出す。一汁三菜なのか五菜なのか、客に合わせて考えた懐石料理だ。この食事に1時間30分から2時間程度。
この間、亭主は、2幕目のお茶の準備を行う。お茶の基本は熱すぎず温すぎずの70℃。いったん沸き上がって冷める過程の70℃だ。お茶を出すとき、このちょうどいい温度になるよう、茶室での食事の進み具合を計りながら、炭をおこし、ついでいく。
亭主たる演者は、まず料理を出す。一汁三菜なのか五菜なのか、客に合わせて考えた懐石料理だ。この食事に1時間30分から2時間程度。
この間、亭主は、2幕目のお茶の準備を行う。お茶の基本は熱すぎず温すぎずの70℃。いったん沸き上がって冷める過程の70℃だ。お茶を出すとき、このちょうどいい温度になるよう、茶室での食事の進み具合を計りながら、炭をおこし、ついでいく。
食事が終わると20分程度のインターバル、演劇なら幕間。
この間、客は外に出ていただき、亭主は床の間の掛け軸を活け花に変えるなど舞台を変え、2幕目のお茶の道具を準備する。
この間、客は外に出ていただき、亭主は床の間の掛け軸を活け花に変えるなど舞台を変え、2幕目のお茶の道具を準備する。
2幕目。
客を呼び戻し、濃茶を点てる。ここでは「一味同心(いちみどうしん)」──全員が同じ茶碗で回し飲む。そのあと薄茶を一人一服ずつ。2幕目も1時間30分から2時間弱なので、合わせて2幕4時間のドラマというわけだ。
客を呼び戻し、濃茶を点てる。ここでは「一味同心(いちみどうしん)」──全員が同じ茶碗で回し飲む。そのあと薄茶を一人一服ずつ。2幕目も1時間30分から2時間弱なので、合わせて2幕4時間のドラマというわけだ。
日常茶飯の行為をドラマにした日本人。
茶会は「一期一会」。今ここにいるお客さまとまた同じメンバーで集まったとしても、着ているものも違うし人々の気持ちも違う。今日のこの会は生涯で一度しかない。ならばこの一回を大事にしようと、細心の心配りを行う。
茶会は「一期一会」。今ここにいるお客さまとまた同じメンバーで集まったとしても、着ているものも違うし人々の気持ちも違う。今日のこの会は生涯で一度しかない。ならばこの一回を大事にしようと、細心の心配りを行う。
人を招くときは「しつらい」「よそおい」「もてなし」を考え、一会を構成する。
「しつらい」とは庭園や茶室をどうするか。
「よそおい」は着る物だけでなく、器も含めた装い。夏は涼しく冬は暖かく感じていただけるよう、道具の取り合わせなどを考える。
「しつらい」とは庭園や茶室をどうするか。
「よそおい」は着る物だけでなく、器も含めた装い。夏は涼しく冬は暖かく感じていただけるよう、道具の取り合わせなどを考える。
そして「もてなし」。世界中全ての食事文化は共食文化。招いた主人と招かれた客が一緒に食事をする。ところが茶の湯だけはそれをしない。
利休が詠んだ和歌「ふるまいは 小豆(こまめ)の汁にえびなます 亭主給仕をすればすむなり」。ふるまい、つまり茶席の料理は一汁一菜でもかまわない。亭主自身が給仕をすることこそ最大級のもてなしなんだと。あの信長が秀吉が、自ら給仕をするからこそ、招かれた客はもう一度呼ばれたいと思う。
利休が詠んだ和歌「ふるまいは 小豆(こまめ)の汁にえびなます 亭主給仕をすればすむなり」。ふるまい、つまり茶席の料理は一汁一菜でもかまわない。亭主自身が給仕をすることこそ最大級のもてなしなんだと。あの信長が秀吉が、自ら給仕をするからこそ、招かれた客はもう一度呼ばれたいと思う。
もてなし、今でいうサービスとは、要は客の満足感をいかに高めるか。茶道では、もてなすうえでの精神性のあり方を「和敬清寂」という言葉で表している。互いに心を開いて和み合い(和)、敬い合い(敬)、清らかな心で(清)、何事にも動じず落ち着いて(寂)、もてなす。
茶道におけるもてなしとは、人に対する思いの深さと言っていい。
残念ながら近年、この思いの深さがずいぶん変わってしまったように思えてならない。人への思いが軽くなり、お茶席以外で「もてなす」という言葉は死語になっているのかも知れない。
残念ながら近年、この思いの深さがずいぶん変わってしまったように思えてならない。人への思いが軽くなり、お茶席以外で「もてなす」という言葉は死語になっているのかも知れない。
かつて吉原の高尾太夫は、自分のところに通い詰めていた大名が参勤交代で国元へ帰るとき、「私のことを時には思い出してくれるか?」と聞かれ、「いいえ、思い出したりなぞしません」と答えた。大名ががっかりしながら帰路についたとき、禿(かむろ)が追いかけてきて、太夫の文を渡す。「忘れねばこそ思い出さず候」(あなたのことを忘れたりしないのだから思い出すことはない)と。
妻が夫を、夫が妻を、親が子を、子が親を思う心、そして向こう三軒両隣のような温もりの感覚──人への思いの深さを大事にしてきた日本人なのに、高度経済成長期以降、他人の心を傷つけ、他人を踏み台にしても平気になるなど、その思いが軽くなっている。
だけど、21世紀は文化の世紀。文化とはカルチャー、すなわち耕すこと。心を耕し、人への思いを深くするものが、再び重要になっている、と強く思う。
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